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04 実の親が子供に死ねと言えるか
 茨城の無差別殺人事件の公判で、被告の親が出廷し

「死刑になっても構わない。減刑は望まないと検事にも伝えた。」

と語ったという。

思うに、親の立場からすると、子供にこんなことを言えるのは余程のことだろう。
まず、自分だったらどうだろうと考えたとき、自分の子供が殺人を犯したとして、検察に「死刑にしてくれ」とは100%言えないだろうから。。。

逆にいえば、「厳しく反省させるから、どうか死刑にしないでくれ」と本心から言えるのは親しかいないのだから。。。

***

自分は、高校を出てからというもの、好き勝手に生きてきて、大学も複数行ったし、仕事も複数変えた。相手方に責任があるといえど結婚も失敗した。
今のこの安定した生活を得るまでは紆余曲曲曲曲曲折あり、恐らく親は「しょーもない子供だな。。。」という思いであろう。

しかし、勘当されたわけでもなく、念に数回電話も来れば、「たまには帰って来い」ともいう。
しょーもない子供でも、親から見れば血のつながった子供であり、親は子供を裏切らないというのは本当であると実感する瞬間である。
つまり、

「この世界に自分のことを裏切らない人間がいる。」

と、思える瞬間が自分にはあるのだ。

***

思うに、この事件の被告は、かなり「ひねくれて」しまっている。
が、しかし、純粋な人間ほどひねくれるものであり、そもそも、ひねくれているということは、善悪は理解しているのだ。
よって、本心ではない、本当の自分ではない自分が犯罪を犯してしまったということである。

冷静になって、この被告の気持ちを弁護できる人間がいるだろうか。
まさにそういう気持ちを理解できる人間が周りにいなかったのが、被告が不幸たる所以である。

もちろん、被害者はさらに不幸であり、遺族の悲しみは被告の親の数倍も大きいであろう。
よって、個人的に、この被告に対する同情の念は皆無であるが。。。

でも、やはり親としては、子供の味方であるべきであろう。
きっと、そこに理由はないのだと思う。

責任の話はその後ですれば良い。

と思う。
カテゴリ:04 考え方 | 05:15 | comments(31) | -
06 強い人間になるには
人間は誰しも「強くなりたい」と一生に一度は考えたことがあるだろう。

いくら体を鍛えても、格闘技を始めても、人は強くならない。
多くの人は、むしろ弱くなる。

争いに勝つ事が「強さ」ではない。
勝とう、守ろうと思う心は「強さ」とは真逆である。

しかし、それによって強くなる人もいる。
なぜだろうか?


恋人ができた。
子供ができた。
守らなければならない人ができても人は強くならない。
多くの人は、むしろ心が弱くなる。

傍若無人な態度は「強さ」ではない。
強迫観念による行動は「強さ」ではない。
誰かを守ろうと思う心は「強さ」とは真逆である。

しかし、それによって強くなる人もいる。
なぜだろうか?


本当の強さとは、いかに「自分らしさ」を「貫く」ことができるかである。
なぜか?
本当の自分を表現している時に、心と体、とにかく自分という自分の全てが、最高のコンディションにおかれるからである。

「自分らしさ」を出すには、「自分の思うままに行動する」ことである。
それを「貫く」には自分に「自信と誇り」を持つ事である。

「自信と誇り」を持つには「現状に満足し感謝する」ことである。
「現状に満足し感謝」するということは常に結果は「成功」である。
常に成功ならば自分の行動に「自信と誇り」が生まれるからである。

格闘技にしろ、守るべき人ができたにしろ、このプロセスをたどった人は強い。

JUGEMテーマ:日記・一般


カテゴリ:03 生き方 | 01:03 | comments(1) | -
01 自分を客観的に見る
自分を客観的に見るということは必要なことだ。

他人のことはよくわかっても、自分のことってよくわからないものだ。
今、自分自身を見つめ直している最中なのだが、やはり、自分って難しい。。。
自分の心の中をもっとよく見てみたいと思うのだが、なかなか。。。

心の中を見るといえば、昔の話だが、ある霊感の鋭い人と話をしていると、他人の運命は見えても自分の運命は見えないということを言っていた。
また、あるカウンセラーの人は、他人の相談への回答には迷わないが、自分の人生についてはいつも迷ってばかりだという。
ある、ヒーラーの人は不定愁訴に悩み、自分では治せないので、いろんなところにヒーリングを受けに行ったらしい。

不思議なことに人間というのは自分のことはわからないものである。


ところで、なぜ自分を客観的に見なければならないか。
それは、自分の思うような人生を歩むためである。

自分の思うような人生を歩むためには、自分のことをよく知らなければならない。
なぜなら、自分ができることしか、できないからだ。
他人を動かすにしても自分の力量である。
ハサミに石は切れないのだ。
かといって客観視とは自分に限界を設けることではないので注意しておく。


人生は人とのかかわりだ。
現代社会の中で生きていこうと思ったら、人に頼らずに生きていくことは不可能だ。
無人島で原始的な生活をするなら、そうでもないだろうけど。

友人は、人間というものは(総じて)最低、最悪、凶悪だという。
正直、自分もそう思う。

歴史を見れば明らかだ。
人間をほっとけば、奪い、殺し、支配するのである。
だからと言って、人を管理すれば、見下し、堕落し、腐敗するのだ。

自分は性善説を信じている。
人はもともと善なる性質をもっている。
しかし、その性質は儚く脆いのである。

だからこそ自分を客観的に見なければならない。
自分がどの程度、儚く脆いのかを把握しなければならない。
把握しなければ、人を傷つけてしまうだろう。
そして、自分を傷つける人と出会ってしまうだろう。


人生における「気づき」であるとか、「学び」であるとか「悟り」というものは、単に、自分が作った原因に対する結果を人生で初めて「客観的に見ることができた」だけのことである。

もちろん人生において、気づかなければならないとか、学ばなければならないということはない。
自分を客観視しなければならないということもない。
ただ、よりよい人生を送りたければ、そうしたほうが良いということだ。

さらに、自分で自分を客観的に見て、人生の方向を判断しなくてもよい。
他人に聞いてもよい。
しかし、他人に聞けば他人の人生を歩むことになる。
それでよければそうすればよい。
しかし、多かれ少なかれ後悔することが多い。

要は、なにをしてもしなくてもよい、または、よくないということはないのだ。

ただ、自分を客観的に見ることで自分で自分の人生を良い方向へとナビゲーションできるようになることは間違いないのだ。
が、誤解のないように言っておきたい。
客観的に判断しすぎるのも、また失敗する。
中庸という言葉があるように、なにごともバランスが必要だ。
くれぐれも、「自分の中の自分」とでもいうべき存在の声を無視しないようにしなければならない。


JUGEMテーマ:日記・一般
カテゴリ:05 人生相談 | 01:14 | comments(0) | -
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