自分を客観的に見るということは必要なことだ。
他人のことはよくわかっても、自分のことってよくわからないものだ。
今、自分自身を見つめ直している最中なのだが、やはり、自分って難しい。。。
自分の心の中をもっとよく見てみたいと思うのだが、なかなか。。。
心の中を見るといえば、昔の話だが、ある霊感の鋭い人と話をしていると、他人の運命は見えても自分の運命は見えないということを言っていた。
また、あるカウンセラーの人は、他人の相談への回答には迷わないが、自分の人生についてはいつも迷ってばかりだという。
ある、ヒーラーの人は不定愁訴に悩み、自分では治せないので、いろんなところにヒーリングを受けに行ったらしい。
不思議なことに人間というのは自分のことはわからないものである。
ところで、なぜ自分を客観的に見なければならないか。
それは、自分の思うような人生を歩むためである。
自分の思うような人生を歩むためには、自分のことをよく知らなければならない。
なぜなら、自分ができることしか、できないからだ。
他人を動かすにしても自分の力量である。
ハサミに石は切れないのだ。
かといって客観視とは自分に限界を設けることではないので注意しておく。
人生は人とのかかわりだ。
現代社会の中で生きていこうと思ったら、人に頼らずに生きていくことは不可能だ。
無人島で原始的な生活をするなら、そうでもないだろうけど。
友人は、人間というものは(総じて)最低、最悪、凶悪だという。
正直、自分もそう思う。
歴史を見れば明らかだ。
人間をほっとけば、奪い、殺し、支配するのである。
だからと言って、人を管理すれば、見下し、堕落し、腐敗するのだ。
自分は性善説を信じている。
人はもともと善なる性質をもっている。
しかし、その性質は儚く脆いのである。
だからこそ自分を客観的に見なければならない。
自分がどの程度、儚く脆いのかを把握しなければならない。
把握しなければ、人を傷つけてしまうだろう。
そして、自分を傷つける人と出会ってしまうだろう。
人生における「気づき」であるとか、「学び」であるとか「悟り」というものは、単に、自分が作った原因に対する結果を人生で初めて「客観的に見ることができた」だけのことである。
もちろん人生において、気づかなければならないとか、学ばなければならないということはない。
自分を客観視しなければならないということもない。
ただ、よりよい人生を送りたければ、そうしたほうが良いということだ。
さらに、自分で自分を客観的に見て、人生の方向を判断しなくてもよい。
他人に聞いてもよい。
しかし、他人に聞けば他人の人生を歩むことになる。
それでよければそうすればよい。
しかし、多かれ少なかれ後悔することが多い。
要は、なにをしてもしなくてもよい、または、よくないということはないのだ。
ただ、自分を客観的に見ることで自分で自分の人生を良い方向へとナビゲーションできるようになることは間違いないのだ。
が、誤解のないように言っておきたい。
客観的に判断しすぎるのも、また失敗する。
中庸という言葉があるように、なにごともバランスが必要だ。
くれぐれも、「自分の中の自分」とでもいうべき存在の声を無視しないようにしなければならない。